2021.09.07
前回は、武野紹鴎についてお話ししました。今回はその弟子の千利休についてです。
千利休は、侘びの精神を茶道具だけでなく、茶会全体まで広げます。掛け軸には水墨画を選んだり、樂茶碗を創作するなど無駄を極限まで削いでいきました。
そのような利久の茶の理念が「家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也。是れ仏の教え、茶の湯の本意也」という一説に表れています。
また、このころは茶の湯が政治と密着していきます。茶の嗜みが精神的な深みのある美意識をもつものであることを示すようになりました。茶道具の中でも名物と呼ばれるものは、城一つにあたると言われるほどの価値を持つようになります。
特に茶の湯に関心のあった豊臣秀吉とは密接な関係を築いていき、秀吉が天下統一を祝うための「北野の大茶会」が開かれた際も、亭主の一人として茶を振舞います。
しかしその後、豊臣秀吉との間で齟齬が生まれ、千利休は切腹させられます。
これ以降は、茶人が政治的影響力を持つことが恐れられ、保守的で雅な「奇麗さび」と言われる穏やかなものが主流になっていきます。